ジョジョに気になるフンガミブログ

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韓国と日本とアメリカの国民性の違い 宮台真司さんの考え

TBSラジオの「荒川強啓デイ・キャッチ」にて、社会学者の宮台真司さんが、政治に対しての韓国の国民性を、日本とアメリカの場合を交えて分かりやすく説明されていたので、文字起こしして要点をまとめてみました。

 

参加民主主義と正当性感覚

近代社会は、参加民主主義という側面と、正当性感覚という側面の2つある。

韓国は参加民主主義的な要素は非常に強いが、正当性感覚がほとんどゼロに近い。

正当性とは何かというと、いまから100年前にマックス・ウェーバーが言ったことで、

内容が正しくなくても手続きが正しければ、あるいは一定の条件を備えていれば、その決定を学習する態度のこと。

 

小此木政夫(おこのぎまさお)という有名な韓国研究の先生は、正当性感覚のことを制度権、参加民主主義のことを運動権と呼んでいる。

 

日本と韓国の齟齬

韓国は制度権が非常に弱い。

簡単に言うと、例えば、日本政府と韓国政府が従軍慰安婦問題で、政府間で合意をしても駄目。

どうしてかというと、日本はそこは近代国家的なところがあって、政府が決定をすればそれを学習するという用意が国民側にある。

つまり、正当性感覚がある。

 

ところが韓国には正当性感覚がないので、政府間決着をしても、政府の決定を学習しない。

従って、もし韓国と付き合うとすると、政府間決着をした後、国民の意識、感情、つまり民意を鎮めるために、日本政府、あるいは日本の民間が直接、絶えず韓国の民間に働きかけなければいけない。

つまり非常に外交にコストがかかる国である。

 

韓国は血縁に重きを置く

正当性感覚がない場合は国家というより、近代組織としての形をとりにくい。

サムスンを始めとして、血縁継承制にこだわる財閥がいまだにある。

宮台さんの師匠の小室直樹さんいわく、韓国には血縁カリスマ性以外の正当性感覚はない。

だから朴槿恵大統領は能力については簡単に言うと、どこの馬の骨ともわからない存在なんだけど、朴正煕大統領の娘だということで、血縁があるので、そこに託し、一定の正当性を認めた。

そういう特徴がある。

 

儒教文化の影響

もう一つ非常に重要なことは、韓国ではある種の正統的な儒教的な伝統がある。

つまり、教養人というか本当の知識人は政治に参加してある種、善を行う、正義を行うという発想、徳治という伝統がある。

そうすると自分が本当の知識人であるということを指示したければ、何か国民的な運動、運動権の盛り上がりがあったときには参加しなければならない。

 

日本だったら例えば知識人がデモに参加すると、せいぜいかっこつけやがってという批判。

韓国はそうではなく、ほんとに知識人だというなら運動に参加しなければいけない。

参加しないやつはインチキ。

そういう風に足を引っ張られることがあるので、運動権にますます火が付きやすい。

 

日本は革命が起こりにくい

良い面としては、参加民主主義という原則から言うと、日本よりもはるかに政治に参加したがる。

従って、実際政権を倒したり、逮捕させたりするということから見ても分かるように、民意が政治を明らかに動かす。

 

日本はごくわずかな例外を除いて、民意が政治を動かすということは基本的になく、せいぜい長いものに巻かれる。

長いものというのは実際長いかどうかわからない。

それはただの空気である。

だから日本では革命がおこりにくい。

革命がおこりにくいから空気を変えるための存在として天皇陛下がいる。

統治権力が変わると正当性を獲得するために必ず天皇陛下に味方になってもらう。

日本ではある種の天皇制的なるものの伝統があるので、かろうじて近代国家の正当性感覚に割と近いものを国民が持っている、ということも出来る。

 

アメリカ人は言葉を信じない

マックスウェーバーはエートスという概念を立てた。

個人の力ではいかようにも変えようがない行為態度、構えの事。

それを形作るのは宗教的な文化。

 

だから例えばアメリカにも独特な宗教文化がある。

イノセンティズムといわれる、言葉を信じない伝統。

言葉でとても正しいことを言っていても、ヒラリー・クリントンがそうだったように、どうせインチキを言って騙すんだろうと言われる。

これも宗教的な伝統。

 

カトリックは教会の教義を大事にする。知を大事にする。

ところがプロテスタント過激派が国を作ったアメリカでは、まったくそうではない。

知ではなく啓示。

個人に降りる神の啓示、つまりひらめきを重視する。

これがアメリカの文学の伝統も映画の伝統も形作っている。

 

どの国からも正当性感覚が失われていく

国民国家のレベルで仲間だ、見ず知らずの人間を仲間だと思う作法が無いので、戦争のために、例えば見ず知らずの仲間のために戦争に行くのも今後ありえないし、見ず知らずの仲間に再配分をするのもありえない。

近代国家に必要な戦争もできない。

やろうとすればドローンで誤爆だらけ。

従って福祉国家政策も取れない。

財政の問題もさることながら何でどこの馬の骨ともわからないやつに金渡すんだよ。

というふうになる。

今後はますます正当性感覚はどの国からも例外なく失われていく。

日本もそう。